ドレサージュ
打ち付けられたリノリウムの床は、思ったよりも冷たくて薄汚れていた。殴られた頬が痛い、というより熱い。頬も、眼球も、熱くて堪らなかった。
どうして殴られたのか、ボクにはわからなかった。ねぇ、何で?どうして?聞きたいのに声が出ない。スザク君は自分が何をしたのか信じられないみたいで、ボクを殴った左手をまじまじと見ている。無我夢中でボクを殴ったのかもしれない。そう、スザク君は意外と直情型なのだ。倒れた時に鼻をぶつけた衝撃で血が出たらしく、灰色の床は一部がほんの少しだけ赤く染まっている。
「……っ!」
急に青ざめたスザク君がボクを抱き起こして、鼻血を拭った。次々と垂れ堕ちるドロリとした生暖かい血は、オフホワイトの白衣をどんどん赤く染めていく。こんなに汚してしまったら、セシルくんに怒られるかもしれない。自分で殴った癖に、スザク君は面白いくらいの慌てようだった。どうやら、先程までの狂気に満ちた雰囲気はどこかに行ってしまったらしい。
『情緒不安定』
そんな言葉がしっくり来るなぁ、と頭の片隅で考えた。
「ねぇ……何で、君が泣きそうな顔してるの……?」
やっと声が出た。唾液が苦い。喋ると血の味と匂いがする。笑おうとしたけれど、それはまだ無理だった。うまく笑えない。頬が持ち上がらない。もしかして腫れているのかもしれないなぁ・・・と思った。もしも痣が残ったらセシルくんは慌てるかな、たまに自分だって殴る癖に。きっとシュナイゼルは笑うだろう、でもボクは笑えるだろうか。
鼻を擦ると、乾いた血が瘡蓋のようにパラパラと落ちて、床に散った。そしてまた、新しい血がどろりと流れ出た。
「……っ、すみ、ませ……っ」
大きな翠の瞳は、ゆらゆらと涙を湛えながら波打っている。まるで海のようだと思った。にっこり笑って見せると、ふいに、スザク君の瞼から海が零れ落ちた。きれいな海だった。それを見止めた瞬間、ボクは何故だか急にスザク君が憎らしいような、言葉では表しがたい妙な気分になった。もしかして、これが、嗜虐心というものだろうか。
勢いよく立ち上がるとテーブルの上にあった紙コップを鷲掴み、もうすっかり冷めてしまったコーヒーを頭からぶっ掛けてやる。すると海は黒く淀んで、リノリウムの床を染めた。血とコーヒーの混ざったような匂いが、部屋中に充満していた。