終焉を迎えた冬
『それ』に気付かされたのは彼に出会って五度目の冬だった。あと少し経てば過去となって、俺をかたちづくるすべての一部になるのだろう。思い出よりも曖昧で味気ない残像だけを遺し、言葉では届かない記憶の海底へと沈んでいくだろう。
終焉を迎えたのも、冬だった。
環は毎年『コタツでお鍋をする』ことを理由に鳳家へと押し掛けてくる。それは理由を変え四季を問わないが、大学生になった今もそれは続いている。むしろ頻繁になったかもしれない。
現在、俺は鳳家を継ぐため医療系の大学へと進み、環とは別々の道を歩んでいる。
高等部に入学する前から、俺はずっと環の『親友』のフリを続けてきた。当時、それは打算的な交友関係でしかなかったが、今ではかけがえの無い友人になっている。それは嘘ではない。偽りの関係ではなく、純粋に俺は環を友人として、大切に思っていた。
打算を捨てた時から、ずっと考えていることがある。俺は環の重荷になってはいないだろうか。新しい友人が沢山出来たと喜んでいたのに、環は週末、決まって俺に会いに来る。それは過去を引き摺っているからでは無く、断ち切る術を識らないからだと俺は思っている。俺なんて切り捨ててしまえばいいのに環はそれをしない。袂を分かつ時は、いつの日か絶対にやって来るのに。そしてそれは、きっと遠くない未来の―――
「おーい、鏡夜?」
お眠かにゃ?となんとも気の抜けた声に、ふっと意識が浮上する。どうやらいつの間にか意識を別のところへやってしまっていたらしい。環は訝る素振りさえ見せずに、コタツで寝るのって最高に気持ち良いよな!と笑っている。
「やっぱり俺の部屋にも欲しいにゃ〜」
「置いて貰えばいいだろう。わざわざ此処に来る手間も省けるし」
そう言うと、環は信じられないものを見るように目を瞠った。
「えっ、鏡夜、おっ、おおお俺が来るの、迷惑なのかっ?!」
「どうしてお前はそう飛躍する。別にそういう意味で言ったんじゃない」
「ほ…っ、ほんとに?」
食い下がる環を、心底から面倒だと思った。普段は無遠慮で無神経でバカで他人の厚意にすら疎い癖に、どうして今日に限って過敏なのだろう。迷惑ではない、と言葉にしなければ不安になる?そんなのは子供の我が侭だ。環の意味のわからないルールには付き合っていられない。けれど、俺は。
「……本当に、迷惑だなんて思ってない。情けない顔をするな、バカ」
「きょ、きょーやぁ……」
(けれど、放って置けないのは、)
いつの日からか、こんな風に言い合いをしても環の入り込む隙間を作ってやるのが癖になっていた。捨てられた子犬みたいに悄げた顔が、パッと輝きを取り戻す。ひどく単純で、ひどく愛おしい存在。きっと環は優しいから俺を引き離せないでいるのだろう。俺はいつだって手を離す準備は出来ているのに。
(―――ああ、これは嘘だ。)
だって、こんな風に小さな言い合いで環が押し黙ると、俺は途端に不安になってしまう。優しい言葉を掛けて、無意識下で環を引き戻そうとしている。俺は、環の優しさに付け入って親友を続けている。俺の「環の重荷にならなければ良い」だなんて偽善の仮面は、いつかきっと剥がれ落ちてしまう。俺は心底で環に頼られることを望んでいる。環に必要とされることを、望んでいる。
「…俺、鏡夜と会えて良かった」
「―――」
「…俺って我侭で、いつも鏡夜を振り回していたから、きっといつか愛想を尽かされると思ってた。ずっと不安だったんだ。鏡夜の重荷になっていないかって。鏡夜って肝心なこと言わないし、猫を被るの巧いから」
最後の一言は余計だと睨むと、環は困ったように苦笑し、俯いた。そして一瞬の沈黙のあと、実はね、と話を切り出した。
「俺、先日、婚約した」
「…それはまた、唐突だな」
「…ごめん。すぐに報告したかったんだけど、こういうのってタイミングがわからなくて……」
月並みによかったなと言葉を返すと、環は複雑な表情を浮かべた。まるで、笑うのを失敗したような、そんな表情だった。どうしたのだろう。俺は何か下手なことを言っただろうか。
「ああ……これから会える時間が、ぐんと減ってしまうのだな…」
「いい機会じゃないか?」
「どうしてそんな……そ、んなの…そんなの嫌だよ!寂しいじゃないかっ!」
突如、環に抱きつかれ、そのまま床に倒れ込む。怒りよりも、ここが畳の上で良かったという安堵が先立った。強かに打った後頭部は僅かに痛みを残している。背中も痛い。環を睨むと、真剣な眼差しと目が合った。心臓が一瞬縮み、それから強かに脈打ちだす。鼓膜に直接響くような鼓動の音がうるさかった。
「…もうひとつ聞いて欲しいことがある」
長い沈黙のあと、不意に環が口を開いた。素直に頷いて口を噤むと、環はホッとしたように微笑んだ。
「俺…フランスに戻れることになった」
「…許して、いただけた、のか…」
うん、と環が頷く。心臓がドクリと音を立てる。嫌な音だ。環は金色の睫毛を伏せて、ひとつ、ゆっくりと深呼吸をする。
「それの条件が結婚だった。フランスに渡ったら二度と日本に帰ることは許されない。日本の友人との連絡も一切禁止で、縁を切れって言われてる」
まるで、小説の件を読んでいるかのように、環は淡々と告げた。
今、環は遠回しに俺との絶縁を知らせている。眸は哀しい色で満ちているのに、どうしてこんなにも綺麗に笑っていられるんだろう。まさか、こんな形で断ち切られるなんて思いもしなかった。もしもこれが環の意思だったなら、俺の胸はこんな痛みを知ることは無かっただろう。環が望んで俺を切り捨てるなら、喜んで従った。
(けれども、これは、違う。)
「…御祖母様は、まだ母さんが何処にいるのか教えてくれない。生きているのかさえも。もしも生きていなくても、後戻りは出来ない。…裏切れない。婚約者のことも、須王のことも。…でも、俺は今、鏡夜を裏切ろうとしてる…」
ごめん、鏡夜。
小さな声で環が告げた。謝られてどうしようもなく腹が立った。そして同時に泣いてしまいたくなった。
「謝るんじゃない。お前が決めたことだろう。条件を呑んだのは、お前だ」
「…そうだよ。でも、違うんだ。俺は鏡夜と、ずっと…!」
「言うな、不愉快だ」
環の言葉を遮り、俺は視線を逸らした。ずっと、の先を聞きたくはなかった。聞いてしまったら、俺は。
「…きょ、うや…鏡夜、お願い…き、嫌わないで…!…俺を見て、す、好き…好きなんだ……!」
瞬間、生温かいものが唇に触れた。触れられて、カッと唇が熱を孕んだ。心臓が強かに音を立てて、ポタリと落ちた雫が俺の頬を濡らした。環の金色の睫毛は涙の雫を湛え、美しく輝いている。ひどく哀しい色に満ちた眸から目が逸らせない。
どうして、どうして環はいつも一方的なのだろう。環が俺にそんな感情を寄せていただなんて知らなかった。ほんの少しも。まったく知らなかった。けれども、もしも知っていたなら、この結末の一部分は納得のいくものに変わったのだろうか。わからない。思考が混乱する。息が苦しい。胸が苦しい。
「…俺は、鏡夜の手を掴むために、何ひとつの希望も可能性もないまま鏡夜の親友を続けてきた。かなわないんだって諦められばよかったのに出来なかった。ただ、隣にいたかった。俺は卑怯だから、親友として傍に居続けたんだ。鏡夜が好きだから」
「…意味がわからない。今更、どうしてこんなことを言うんだ…」
「ごめん。鏡夜の傍にいれるなら何だってよかったんだ。たとえ鏡夜がそうじゃなくても…ずっと、ずっと鏡夜が好きだった…!あいしてる…誰よりも鏡夜が好きだよ。…鏡夜を滅茶苦茶にしたくて、でも、ずっと我慢してた。…もう、抑え切れなかった。ごめん。気持ち悪い、な…ごめん……でも、鏡夜を誰にも、だれにも渡したくないんだ…ごめ、ん……」
再び、唇が触れる。舌先が痺れるような、息苦しさを覚えるそれもまた、一方的だった。俺だって、お前が大切だったのに。こんな形で終わりたくはなかったのに。息苦しさに耐え切れずに侵入してきた舌を噛んだ。引き抜かれる舌が、僅かに血を滲ませていた。
「ああ、だめだ、過去形になんて出来ない…。…これからもずっと、鏡夜がすき、ずっと…」
――愛してる。
ぽたり、再び雫が落ちる。遺ったのはあまく惨酷な残像だった。